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『考えがなければ、苦しみもない』



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No Thinking, No Suffering
第1巻、第13号 ; 2003年7月1日

精心道オフィシャル・ニュースレター
「ピュア・ハート、シンプル・マインド」

Pure Heart, Simple Mind ®

【今号の内容】

  1. スタート・ライン
  2. 考えがなければ、苦しみもない
  3. エクササイズをはじめる前に
  4. エクササイズ :「はい」と「いいえ」を同時に言う
  5. 関連リンク
  6. エンド・ノート
  7. 著作権、登録と解除

1. スタート・ライン

 韓国のSeung Sahn禅師が語った話。
 むかし韓国にある若者がおり、彼は自分の人生に空虚感を感じていた。彼は剃髪(テイハツ)し、僧として生きるため山に入った。何年も勤勉に修行をしたものの、どうすれば自由になれるのか分からずじまいだった。
 若者は、中国に信頼できる禅師たちがいるのを耳にした。彼は数少ない持ち物をまとめ、不毛の平原を横ぎる困難きわまる旅に出た。
 連日、何時間も歩き、水のある一画を見つけたときのみ立ち止まった。そんな乾ききった土地で、生命の維持にかかせない水を見つけることはけっして容易ではなかった。
 身体を休め、回復させるのに適した場所を見つけるまで、夜おそくまで歩かねばならないことが何度もあった。

 ひどく暑かったある日、オアシスが見つからずに僧はひたすら歩きつづけた。やがて月のない夜になるにつれ、彼の歩みは相当にのろくなり死んでしまいそうだった。ついに身体を横たえるのによい場所を見つけたとき、彼は地面に崩れ落ち何時間か眠った。真夜中をすぎた頃、彼は目を覚ました。すさまじくのどが渇いていた。暗闇の中、あたりを四つんばいになって這いまわった。前の旅人が置いていったのだろう粗雑にかたち作られた器を彼はふいに、偶然見つけた。
 後からやってくる旅人が飲めるように、いくらか水の入った器を置いてゆくのは、よくある風習だった。彼は器の乏しい量の水を飲んだ。神の恵みとこの世の平安を感じ、再び横になり、早朝に太陽の光がさすまですっかりと心地よく眠った。

 朝、目覚めて座った姿勢で彼は見た。昨晩、自分が使った粗雑にかたち作られた器を。それは子オオカミの砕けた頭がい骨だった。頭がい骨には血のりがべったりとついており、底のほうにたまっている汚れた雨水の表面に、無数の虫が浮かんでいた。

 僧はそれを見た瞬間、嘔吐した。吐き気が波となって押し寄せ、液体を口から大量に吐き出した。あたかも自分の心を浄化しようとするかのように。
 直ちに、彼は深く何かを理解したように感じた。
 昨夜、暗くて見ることができず、前の旅人が残したものだろうと仮定したからその水はうまかった。今朝、頭がい骨を見て、自分が昨夜何をしたかという考えが自分の腹をこわした。具合を悪くさせたのは、水ではなく、自分の考えだったのだと彼は理解した。それは彼の思考だった。思考は作りだす。良い−悪い、正しい−間違い、おいしい−まずい。思考がなければ、苦しみもないのである。

 この理解を得て、彼の旅は完了した。もはや禅師を見つける必要はなかった。

2. 考えがなければ、苦しみもない

 考えることは苦しみをつくり出す主たる要因である。理性的な精神は、ひとつのものを他から分離させ、そして「反対のこと」のフィルターを通して人生を理解しがちだ。正しい−間違い、良い−悪い、私−あなた、簡単−難しい、すべては思考がつくり出すものだ。
 考えないとき、私たちは固執しない。勝つか負けるか、成功か失敗か。結果に固執しないでいられれば、私たちは達成でき、身体はリラックスを保ち、融通がきき柔軟である。
 人々は多くを欲する。名声を、運を、セックスを、権力を。これらすべての欲求の出どころは思考である。考えているとき、私たちは自分の核にある自己のことは理解しない。核にある自己を理解しないとき、私たちは真実を理解しない。真実を理解しないとき、私たちは世界を誤って表現しゆがめる。そうやって私たちは苦しむのだ。
 考えないことは直感的な行動を導き、直感的な行動は平安に生きることを導く。考えないとき、私たちは知らない。知らないでいるとき、私たちはすべてのものから学べる。

 考えるのもよいだろう。じっさい必要だし魅力もある。思考がなければスケジュールはこなせず、スケジュールがなければ、私はこのニュースレターを書くこともできないだろう。
 自分の思考によって、足もとをすくわれなければ、
 自分の思考によって、完全に何かを信じきらないならば、
 考えることは役に立つ。

 考えるときに重要なのは、自分の思考を怖れない精神を保つことだ。怖れることは、感情と身体を非生産的な状態へと引き込み、健康体とあらゆる活力を減少させる。健康と幸せに影響する否定的な怖れを越えなければならない。
 怖れと(前号のニュースレターにあったような)否定的なマントラは、自分が達成できうることがらに対して、明白に否定的な影響をもたらす。
 最高の成果であれ、最低のものであれ、その両方は自分が自分に向かって何と言うかに依存する。できるわけがないと自分に言いながら、もしあなたがスタートしたのであれば、文字どおり速く走れないし、遠くに投げられないし、あるいは複雑な仕事をやり遂げられないだろう。

 私たちが考えないでいるとき、エネルギーは身体の1点にきちんと落ち着いている。エネルギーがこの点に集められるとき、私たちが求める他の場所や他の行動へと、フルにエネルギーを向けることができる。エネルギーが1点に落ち着いているとき、私たちは穏やかに生きられる状態に入ってゆく。ほとんどの場合、この状態において自分のフルパワーが明瞭になる。

 東洋の精神ではこう言う。
   もっと茶を欲しているなら
   まず茶碗を空にするのがよい。

 同じように、自分の思考システムを空にすることは、私たちが新しいアイデアを受け取るための準備だ。そうしてから、新しいチャレンジに向かおう。

 考えるとき、精神(心)は私たちの頭の中に現われる。これは小さく限られた精神であり、この精神は他のものと分離している。考えないとき、あなたの精神は境界をもたず、どこかに固定することもない。これは大きな精神である。
 すべてのものはあなたの精神の中にあり、あなたの精神はすべてのものの中にある。そこでは内側も外側もない。観客と演者の違いもない。敵対者もおらず、勝利も敗北もない。
 これは最高の成果に達するときに必要な状態である。毎日の日常で感情的にバランスのとれた人生を生きるために必要とされる状態である。感情的にバランスがとれているとき、私たちは身体的にもよりバランスがとれる。この逆もまたほんとうだ。

 合氣道において私たちはこう言う。
 考えることは身体の重心をもち上がらせる。そうやって、考えることは何らかの作用で私たちを感情的にも身体的にもバランスを失った状態にする。身体的にバランスがとれないとき、私たちはスムースに効果的に反応することができない。効果的にスムースに反応することができないと直感的に感じるとき、感情が揺り動かされ、そして実際に相手から攻撃を誘い出してしまう。
 精神が空っぽのとき、重心は下降し、順応と変化の能力は高まりをみせる。容易さを感じ、そして相手から友好的な関係を誘い出すようになる。

 私たちは自分で気づいているよりも、もっと運の支配者なのだ。私たちは監督であり、プロデューサーであり、トップクラスの俳優だ。自分の人生の映画を日常を基礎にして制作しよう。それをコメディにもドラマにもホラーにでも、そして自分をヒーローにも被害者にもバットマンにも天使にも、何にだってできる。

 私と共に働いているモリー・ゴードンは、ビジネス面で相談にきたあるクライアントが気づいたことを語ってくれた。いかに自分が否定的な思考と信念と行動によって、自分のキャリアを明瞭に妨害していたかを。
 彼女は、この新しく発見された真実によって「権限」を与えられているという感覚をクライアントがもてるように援助した。これは肯定的思考の技術であり、高い質のコーチングが役にたつ領域だ。
 達成できていないことがらと自分が世界を知覚する方法とに、自分の思考や信念や行動が、「すでに」「主要な」強い影響を及ぼしていることにクライアント自身が気づくように、彼女は援助した。
 いったん気づいたなら、いろんな局面で、自分自身が肯定的な思考や信念や行動を減らしていることと、それによって貧弱な成果がもたらされていることの相関性は明白だった。
 否定的な考えは否定的な結果をもたらす。思考や信念がすでに自分のビジネスに主な影響力をもっていることをそのクライアントは理解した。このことは、さらに先の理解へクライアントを導いた。自分が大幅に考えかたや信念を刷新したなら、新しい考えは、ともかくパワフルで肯定的な影響を自分のキャリアに与えるだろうということだ。ちょうど、かつての考え方が否定的な影響をもたらしたのと同様に。

 さらに言えば、前回のニュースレターで触れた、私の元クライアントが学んだレッスンも同様である。
 絶えず悪いことが起こるのではないかと怖れることは、想像しているひどい事が実際に起こるのを待っている以外、何もできない状態に自分自身を置き去りにすることに彼は気づいた。
 ジムがうちひしがれていたとき、彼はついに考えるのをやめた。そうして、彼はついに怖れるのをやめたのだ。

 冒頭の僧侶の話を思い出してほしい。頭がい骨を見て、彼は自分の考えによって文字どおり、自分を病気にした。それほどパワフルなものなのだ。
 自分の考えを取り去り、同様に病気を取り去った。自分を病気にさせたのは水でなく自分の考えだったのだと彼は理解した。考えがなければ、苦しみもないと。

 あなたはどうだろう? 人生において、巻き込まれている実際の状況に苦しめられているというよりも、じつは自分の考えが苦痛をつくり出していると、いま理解できる状況が何かあるだろうか? もしそうなら、精神を浄化し自由にさせる、いまがよい機会だ。

3. エクササイズをはじめる前に

 精心道で使っている2つの用語、プラクティスとエクササイズの違いを説明しよう。
 感情的バランスを保って生きることは、人生全般にわたって必要とされる現在進行形の技術である。自分をスローダウンし、再充電し、そして違った観点の展望がもてるようにあなたを援助するようないろんな「活動」を実行することは重要だ。ここで話しているような活動のことを、私たち精心道では「プラクティス」と呼んでいる。プラクティスは、自分の人生の道程を通じて何度もくり返して練習するものだ。
 たいていの精心道のプラクティスは本来、瞑想的で熟慮するようなものである。それは自分の核にある自己が元気になるのを援助できるように作られている。

 一方、「エクササイズ」は何かをいま習うために、あるいは新しい洞察を獲得するために、いくらかの愉しみをもって教育的な探究をすることである。
 精心道のエクササイズは、「思考の経験」ということもできる。それは次のような感覚に行き着く「あぁ、そんなふうに自分が考えていたなんて知らなかった」、「わー、違ったやり方で自分の身体を使ってみて、自分の考えが変ってゆくのを見てるのっておもしろい!」。

 エクササイズは新しい洞察をもたらす。そしてプラクティスは新しい洞察を日常生活と統合させるように、あなたを援助する。今回はエクササイズのひとつを私たちといっしょに探究しよう。

4. エクササイズ :「はい」と「いいえ」を同時に言う

 このエクササイズは、ワークショップで行うレパートリーのうち、参加者の評判がよいもののひとつだ。
 ワークショップでやっているように、エクササイズは3名で行うが、自分ひとりでも可能である。ここから何かしら学べるものがあるので、ぜひ試してみよう。エクササイズをした経験談のメールを歓迎します。
seishin@seishindo.org

エクササイズ:「はい」と「いいえ」を同時に言う

5. 関連リンク

Judith DeLozier has been a trainer, co-developer, and designer of training programs in the field of Neuro-Linguistic Programming since 1975. Along with John Grinder, she explored the interrelationships between NLP and the threads of culture, community, art, aesthetics and epistemology. The result of this work was the creation of NLP New Coding, which stimulated a movement toward a more systemic and relational approach to NLP, and a resurgence of interest in the work of Gregory Bateson. We are happy to let you know that we have added Judith DeLozier’s article “Mastery, New Coding and Systemic NLP” to our Articles section. Judy was also kind enough to write appreciatively of my work in our Kudos section. Thanks Judy!
Judith DeLozier’s kudos for Charlie

6. エンド・ノート

 友人である読者のひとりからメールで質問をもらった。
「ニュースレターの中で‘無心’について‘それは自分の思考の精神はフルに表出しているけれども、それがどんな内的会話ともつながっていない状態’‘自分の考えと行動の間にさえぎるものが何ひとつない状態’と書かれていたけれど、考えと内的会話の違いを説明してくれますか?」

 これはよい質問だ。というのも、簡単に答えられるものではない質問だとすぐに気がついたから。

 私の考えのひとつは、何が起こっているのか、そこで違いをもたらすために何が求められているのかについて、反射的に起こる解釈が、内的会話だ。自己のひとつの部分が、もう一方に話している。通常それは指示的である。
 「無心」のときの考えに関しては意味がつかみとりにくいので、喩えを使いたい。私が無心状態に入ったとき、感じるのは自分が「有機的なコンピュータ」になったような感覚だ。環境から情報を採取し、公正かつ綿密に内側の状態をモニターしながら、入ってくる情報に注意を払う。あたかも、理性と感情とからだの感覚、それぞれが互いに触れあっている、互いに親密に情報交換している状態だ。「話す」必要も指示を出したりする必要もなしに。きっと、私は理性的に感じとり、感情的に理性をはたらかせているのだろう。
 そこで私は、愉しさと哀しみの両方を、同じぜんたいの中で感じることができる。
 自分の行動を調整することはできる。しかし調整しろという命令は、頭がい骨の真ん中の指令室からやってくるのではない。どうすべきか、システムそれ自体が理解するようなものだ。
 なんとか伝わってくれればと願っています。自分の経験を描写する、これがいまのところ私にとってベストな説明なのです。

 続けて友人は書いている「無心と瞑想はどう違うのか?おなじように見えるのだけれど?」。

 そう。多くのかたちで、無心と瞑想は同じものになりえる。無心は、目を開いてこの世界にフルに表出している状態を含んでいます。私たちは静かに座っていることもできる。でも、通常、私は無心をもっと活動的なものだと思っている。
 無心であれ瞑想であれ、あるのは「1つのみ」。

7. 著作権、登録と解除

 発行者の許可なく転載、複製はできません。一部を除き、当ニュースレター「ピュア・ハート、シンプル・マインド」のすべての内容は、チャーリー・バーデンホップが執筆、編集しています。
Charlie Badenhop © All rights reserved.

 ニュースレター(英文)の登録と解除は、下記のURLで受付けています。原則的に月2回の発行です。
http://www.seishindo.org/newsletter.html

 ワークショップ「東京クラス」のスケジュールは、下記のページでご確認ください。www.seishindo.org/japanese/tokyo.html

日本語訳:下尾崎 勉〔プロフィール

*訳者へのメール送信はこちらからどうぞ*
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