禅と雨のオートバイ紀行
Zen
and Motorcycling in the Rain
Tsutomu Shimoozaki
明けがたのラジオで、高速道路のチェーン規制が出てるのは一部の区間であることが伝えられていた。 名神・米原JCTから分岐して北陸道に入ったとたん、いっぺんに視界がわるくなった。霧状の雨がヘルメットのシールドを濡らした。空から落ちてくる雨なのか、それとも四輪があげる水しぶきなのかわからなかった。大粒の雨ならシールドを流れてくれるのに、あまりに細かい雨は、左手で拭っても拭っても、一瞬で視界を真っ白にした。道路の両脇の草地にはしっかり雪がかぶさっている。‘雨!スリップ注意’の表示。道路傍の‘チェーン装着場’をいくつも通り過ぎる。ここで転倒はさすがにまずいと思いながらアクセルをONにしつづける。深呼吸しようにも、吐く息で今度はシールドの内側が曇ってしまう。朝、大阪の自宅を出発したときは降ってなかったというのに。

正月の休みはこれといった予定などない…はずだった。28日の最終開館日に図書館から借りた本を読み、缶ビールなど飲みがてら、午後早く自転車コギコギお風呂屋さんに行ったり、のらりくらりちっとも片付かない部屋をそれでも一応掃除したりしていた。どのラジオ局もただ騒々しいだけなので、敬愛するナタリー・ゴールドバーグの朗読テープをわたしは聞きはじめた。30日の午後のことだ。
このオーディオ・テープ版“Long Quiet Highway”のいいところは、本にはない著者インタビューが収録されている点だ。カセットは6本あり、収録時間はトータルで8.5時間。そのうち6本目がインタビューで、以前からこのパートをわたしはくり返し聞いていた。この日は4本目から聞きはじめ、ナタリー自身の声によって語られるその世界に、どんどん引き込まれていった。5本目のB面を再生中、あることにわたしは気づいた。‘Part Five’が出版されている本より、いくぶん長いのではないか。そうなのだ。音楽CDふうの言いかたをすれば、ボーナス・トラックなのだ。しかもインタビューとは別に、本文自体に続きがあるとは。そして驚いたことに、その印刷されなかった部分のストーリーは、著者ナタリーが日本を訪れたときの話なのだ。このカセットを購入してから2年近く経つというのに、わたしはそれを知らなかった。なんという愚かさ。彼女が日本に来たことがあるのは、ごく短く他の著作で触れられていたから知っていた。きっと京都あたりを観光したのだろうぐらいにわたしは思っていた。
印刷された本では、著者が生涯の先生である片桐老師を亡くした後、ティク・ナット・ハンと一緒に瞑想し、やがて1991年に湾岸戦争が始まると、サンタ・フェの町の真ん中で平和のために黙想するところで話は終わっていたのだった。それが全てだとわたしは思っていた。でもそうではなかった。朗読テープによるとその後ナタリーは、片桐老師が1963年に渡米するまで暮らしておられたらしい、日本海沿いの小さな小さな町のひとつを訪ねてゆくのだった。

ナタリーは語っていた。京都を電車で出発、ビワ湖を眺めつつ北上、「スルガ」に着く。そこからバスに乗りかえ「キタダ」で降りる。小さな町に寺がある。
彼女の発音する「スルガ」とは日本海側なら「敦賀 (ツルガ)」のことに違いない。わたしの名前のツトムを、彼らがトュトムと発音してしまうのと同じだ。それはそうとして、「キタダ」とはいったいどこなのか。
Macintoshを起動して郵便番号検索ページを開く。地名はカタカナで入力してくださいとある。漢字はわからないから好都合だった。1件ヒット。「〒919-1204 福井県三方郡美浜町北田」 続けて地図サイトで美浜町北田附近を1/8000表示するとお寺のマークが2つ、神社の記号が1つあることがわかる。ほんとうにここなんだろうか。さらに「寺院名簿(美浜町内)宗派別」というページを見つけるが、北田に曹洞宗の寺は載っていない。さらに「曹洞禅ネット」というサイトで駒澤大学内の曹洞宗・教化研修所が発行した会報に「片桐大忍・北米開教二十五年」という記事があることなどがわかる。
明日は31日。何も大晦日に行くことないのだが、じっとしてはいられなかった。自分の住む土地から150キロほどのところなのだ。ミネソタに比べれば‘すぐそこ’と言ってもよかった。

敦賀インターで高速を降りる。標識が示す敦賀市街へ向かう。JR敦賀駅前のロータリーに13時30分。出発して約4時間。あったかい缶コーヒー。ブーツが水びたしで重たい。 駅前に立つ地図で敦賀湾の方向を確認。地図横の宿泊情報の表示から適当な宿に電話。ひとまず今夜のベッドが確保できた。駅の3つ並んだ公衆電話の入り口に、化粧のやたら濃い女性がタバコをふかしてしゃがんでいた。車を待っているのか。わたしが電話しているあいだ、通りがかりの杖を手にしたおじいさんが、グレーの半纏(はんてん)から出した自分のタバコに、先の女性から火をもらっているのがガラスごしに見えた。大阪の真ん中では見ない光景では?などと、頭のかたすみで思った。
ナタリーの語りによると、敦賀駅に3つあるバスのりばのうち「ナンバー・ツー」が北田ゆきであるらしい。今もバス停は3つあった。そして2番のりば表示をみると、16個目に「関電社宅前」があり17個目のストップが「北田」だった。ナタリーはここで和食屋に友人とともに入り昼食をとっている。注文したあと彼女たちはバスの時間まで15分しかないことに気づき、店員にむかって腕時計を指しながら「ファイブ・ミニッツ、ファイブ・ミニッツ、ファイブ・ミニッツ」と3回言ったらしい。
わたしは適当な定食屋に入った。ひとりも客はいなかった。親子丼を食べたのだが、たんなる卵かけごはんに近いひどい味だった。湯飲みをテーブルに置く音が静まりかえった店内にひびきそうだった。女性の店員さんは、うっとうしい天気のせいか、なにやら困ったような表情を始終していた。
国道8号から27号に右折、西へ向かう。北田のバス停はすぐ見つかるんだろうか。比較的新しそうな高架道路を走る。敦賀市街を一歩出たなら、田畑のつづくいなかの風景が広がる。あいかわらず小雨。山々は濃いグレーのまま雨につつまれておし黙っている。寒い。国道だけがのびている。ナタリーがバスに乗り込むとき運転手に「キタダ?」と訊き、走り出してからも何度もくり返し「キタダァ?キタダァ?キタダァ?」と言うものだから、しまいには乗客全員がナタリーの降りる「キタダ」を覚えてしまった、という一節を思い出す。 どんどん市街をはなれてゆき田畑の間を進みながら「あぁ自分は、こんなところまで来てしまった、ほんとうにこの道であっているんだろうか?」と心細くなり、くり返し「キタダァ?」と確かめずにはいられない気持ちは、いまならオートバイのわたしにもよくわかる。
長さ1,790メートルのトンネルを抜け、山をひとつ越えたなら町のひとつが見えた。「赤い屋根のお寺」があるはずだがそんなものはない。いやまて、バス停が先だろう。そう思いながらさらに走り、ゆるいコーナーをひとつ抜けたなら、目の前に突然ぱっと広がったのは、冬の日本海だった。そうだ、ナタリーも言っていた。かのお寺からは日本海がのぞめたということを。片桐老師の妻のトモエさんからナタリーが教えられたのと同じように、ナタリーの語りに教えられたとおりに、わたしはここまで来ているのだった。
ナタリーは、北田のバス停とお寺の写真を見ながらトモエさんに説明をしてもらったらしい。しかし、そのバス停が、ない。いや、ひとつふたつあったがどれも北田じゃない。駅の看板に書いてあった地名など覚えていやしない。
しばらくして自分が再び高架道路を走っていることに気づく。そんなはずはない。行きすぎだ。ガソリン・スタンドの屋根の下に入り、従業員に声をかけた。「すみません、この辺にキタダって町、知りませんか?」「いやぁ、わかりません」従業員でない人のほうが良いかもしれないと思い、給油中の車の運転席に座る女性にも訊いてみたが、怪訝そうに頭をかしげられるばかりだった。困った。次にファミリー・マートが見えてきたので、地元の地図をチェックすることにした。附近の海水浴場を紹介する地図があったがそこに「北田」の文字はない。しかし地形に見覚えがある。ネットで見ていたからだ。「北田」の手前に位置する「佐田」を見つけた。いつのまにか反対方向を走っていたみたいだ。
引き返すと海沿いの道に一度通ったバス停があった。そして明かりのついている電気屋を見つけた。「すみません、キタダってこの辺じゃないですか?」「サタ?サタ?サタはあるけどキタダなんてねえよ」男性は怒り口調でそう言って中に入っていった。いやあるはずだ。荷物から地図帳に挟んであったウェブ・ページのプリントアウトを出して見ていたら、軽トラックが1台、オートバイの後ろに止まりおばあさんが降りてきた。おばあさんも「北田」を知らなかったが、地図に載っている郵便局が電気屋と同じ並びにあるとわかる。「ほれ、あそこ、郵便局」すぐそこだった。この先の三叉路を左にゆけば、すぐ近くが「北田」のはずだった。そうかこの三叉路をさっきは間違ったのだ。それにしても隣町ですら「北田」を知らない。どれほど小さな町なのか。
左が日本海。右が山という道を行く。右の山に入る小さな道がある。傍に「北田」の文字。オートバイの走る左車線にバス停はなかったが、海側につきでたバルコニーみないなバス利用者用の退避場があった。山側だけにバス停が立っていた。そばにある頑丈そうなブロックづくりの待ち合い所は、どうやらスクールバスの子どもたち用のようだ。
町は見えないがきっとこの上だろう。はたしてトモエさんがミネソタの地でナタリーに見せたバス停の写真とは、ほんとうにこのバス停なのか。何もないではないか。
雨の中、ぼうぜんとその場に立ってわたしはごうごうと唸っているばかりの冬の日本海と風の音を聞いていた。ベンチひとつなく、マクドナルドの紙カップがひとつ転がっていた。吹きつける風と雨と灰色の空。深く息を吸ったら、潮のにおいがわたしの鼻腔いっぱいに広がった。

ゆっくり細い道をオートバイで登りつつ「赤い屋根のお寺」を探した。畑の中にぽつんとレストラン(あるいは飲み屋?)が1軒。白いペンキで手書きの文字。‘スゲ〜美人イマス’無駄な抵抗のように思えた。
そもそも禅のお寺なのに「赤い屋根」はおかしいのではないのか、そう思っていた。ミネソタ禅センターがそうであるようにお寺は曹洞宗のはずだ。赤い屋根はあり得るのかどうか。家なみに入って道を進む。「北田公民館」と堂々と書かれた木の看板。小さなポスト。お地蔵さん。ドラム缶のたき火。やたら目につく軽トラック。お正月のしめ縄。黒板に書かれた今月の行事。消防団らしき倉庫。およそ50戸ほどだろうか。晦日のせいかもしれないが、どの家もきれいに手入れされている。庭の生け垣も整っている。なんというのか、決して沈んだ感じの町ではなかった。生きているというか、日々の息づかいがそこにははっきりと感じられる、そんな家なみだった。
お寺らしき建物は見あたらなかった。庭先におられた割烹着の方に声をかけた。「お寺、ありませんかねぇ」「あるけど誰もおらんよ」「ある?」一拍無言のあと早口で「橋渡ってずっと上のほう」「そう?そう?」いいながら、ヘルメットごしでも嬉しそうに見えるようにわたしはいっしょうけんめい笑ってみせた。あの一呼吸の無言は見なれない人間に対する警戒だろう。そして早口だったのは、突然姿を見せた不信な相手に教えていいものかどうか一瞬迷ったことの表れだ。
橋と呼ぶにはあまりにもかわいい橋を右に折れ、山へ続く細い道を進んだ。両脇は田んぼ。ナタリーの語りだとバス停から歩いてついには未鋪装の地道を行ったとある。家なみからはどんどん離れてゆく。細い道の奥に墓石が集まっているのが見える。しかしお寺なんてない。田んぼの間の道はどんどん狭まっていく。白の廃車。ついに行き止まり。オートバイではこれ以上行けない。Uターンする。
お墓の向こうに木立があってその中に茶色い瓦の民家がある。ん?赤い屋根と呼べなくもない。正確には赤茶色だ。あの朗読テープをわたしは30日に、はじめて1回聞いただけだ。ナタリーは赤茶と言ったもわからない。
木立の入り口にお地蔵さんが並んでおられる。他のお墓同様、供えられたお花はどれも新しいものばかりだ。石の塔。はなれの便所。小さな池に落ちるわき水。底のほうに手のひら大の金魚が4〜5匹。もし寺だったら誰もいないということだから家の大きな玄関は閉まっているだろう。すこし横にある勝手口のようなところにわたしは近づいていった。そこに表札らしきものがあったからだ。
木の表札はいたんで白い灰色になっていた。墨の文字がずいぶんかすれてしまっている。一番大きな漢字が見えた「桐」その下に「大」。息をのんだ。近づいてさらによく見た。「住職/片桐大忍」表札は上下に2つあり、上には「曹洞宗泰蔵院」、下に「住職/片桐大忍/福井県三方郡美浜町北田第四十八号六番地」と読めた。
わたしはヘルメットを地面に置き、レインスーツを着たまま、そのままそこのコンクリートの上がり場にぺたんと正座で座りこんでしまった。こぶしを太股にあてて自分にむかって言った「ここが、ここが、ここが」
言葉にならなかった。
ここがそのお寺だった。40年も前に片桐禅師があとにしたのは。曹洞宗の布教の目的でアメリカへ派遣され、たくさんのアメリカ人の生徒を教え、慕われ、愛された、その老師の出発点がまさにここだった。数えきれないアメリカ人の生徒の中のひとりのナタリー・ゴールドバーグが、書いた本をわたしが読み、その文章になんべんも元気づけられ、そしてついにはこんなところまで、わたしをやって来させたのだった。

ナタリー・ゴールドバーグの本を初めて読んだのは10年くらい前だと思う。梅田LOFTの何階かに、かつてあった本屋で「クリエイティブ・ライティング」を買った記憶がある。文章を書くことについての本のようでありながら、じつは深い「禅」の本でもあったのだ。彼女の禅の先生である片桐老師の話が随所に出てくる。以来ずっとわたしにとっての大切な本でありつづけ今もそうなのだ。くり返し元気づけられる文章だ。オリジナル・タイトルの“Writing Down the Bone”は、アメリカではいまなおロングセラーだ。それはAmazonUSAにあるカスタマー・レビューの信じられないほど量の多さからもうかがえる。
そして“Long Quiet Highway--Waking Up in America”をわたしが見つけたのは1996年の2月か3月、ニュージーランドでのことだった。それ以前からわたしはMacintoshを使っていたけれども、自分のマシンは持っておらず、まだインターネットも検索サイトも知らなかった。
晴天がつづく夏のある日、オークランド市の図書館をうろつき、たまたま館内用の検索マシンの白黒の画面で検索してみたらナタリー・ゴールドバーグの本が3冊か4冊あった。借りられる状態にあったのはそのうち“Long Quiet Highway”1冊だった。ハードカバーの明るいグレーの表紙をよく覚えている。
自分で買ったのはさらに1年か2年くらい後のことで、そのころいつもそうしていたように、京都の北白川にかつてあったが今はもう存在しない「ミューズ・インポートブック・セラーズ」でペーパーバック版を取り寄せ注文した。ちゃんと全部読んだのはこのときだ。禅との出合いから片桐老師から学んだものをつづったこの本は、もうひとつのわたしの大切な本になった。
一度は「クリエイティブ・ライティング」を出した春秋社に直接電話してこう訊いたこともあった。「ナタリーの本は1冊しか邦訳がないけれども、すばらしい他の著作を出す気はないのか」と。返ってきたのは「前のがもうちょっと部数のびてくれれば…」という営業的理由を話すさえない声の返事だった。
ちなみに“Long Quiet Highway”のバックカバーには“Zen and the Art of Motorcycle Maintenance”を書いたRobert M.Pirsigが推薦文を寄せている。
さらにちなみに、ペーパーバック版“Zen and the Art of Motorcycle Maintenance”と、あの“If You Meet the Buddha on the Road,Kill Him”は同じBantam社から出ている。
さらにちなみに、東京在住のチャーリーさんのお薦めブックリストに“Zen and the Art of Motorcycle Maintenance”があるのを見つけたときは、嬉しくてついメールしてしまった。
オートバイ乗りにとっては“Zen and the Art of Motorcycle Maintenance”は古典のひとつ。知らない人のために片岡義男氏が書いている文を引用しておきたい。
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――オートバイとのつきあいをとおして、著者は、さまざまな感覚や知識を自分の内部でひとつにまとめあげていき、オートバイという合理システムの追求とかさねあわせて、ひとつの確かなことをつかんでゆく。かなり強度の精神障害を体験した著者が、この本の最後で、「もう大丈夫だ。そう言いきってもいいような気がする」と書けるようになるまでに、オートバイを通した自己治療が、ほぼ完璧におこなわれた。
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泰蔵院(たいぞういん)境内に並ぶお地蔵さんの前に立ち、周りに誰もいなかったので、お顔のひとつひとつを見ながら手をあわせてわたしはゆっくりと声に出して言った。
「You know, Roshi. You gave me a lot. Thank you, Thank you, Thank you」
白い軽トラックが1台、境内に入って来た。地元のおじさんだった。「写真を撮ってまわってるの?」と話がはじまった。「あそこに片桐老師のお名前があったのでびっくりしてたんです、まさかって。あの、ここに白人の女性が来たことはないですか。その人の本を読んで、ここに来たんです」
いろんなことを教えてもらった。町のひとが毎年もちまわりでここの維持管理をしていること。外国人がたしかに来ていた。中には数日ここに泊まっていった尼さんもいたそうだ。片桐禅師は1回だけ里帰りしたが、結局布教先のアメリカから帰ることはなかったこと。片桐住職がいなくなって他とかけ持ちの住職さんがおられること。檀家の者としてはアメリカに行かれるよりここにおってもらったほうがよかったこと。昔は茅葺き屋根だったけれど、痛みがはげしいので昭和31年に茶色の瓦になったこと。
お寺の中にも入れてもらい当時の茅葺き屋根の写真なども見せてもらえた。海軍の帽子をかぶったお写真などや書が壁に並んでいる。お正月の準備で用意されたお坊さん用の朱色の座布があざやかだった。そして両脇のみごとな金色の蓮の葉がまぶしかった。
ナタリーが来たときも今日と同じように雨だったのだ。雨が屋根をうつ音が聞こえるお寺の中で、1枚の写真を見つけたナタリーがささやく一節がある。
「老師、これに会うためにわたしはここまで来たのです」
外に出てもういちどあの木の表札を見上げながら、わたしは思った。「これのためにわたしは来たんだ」
日本海から吹き上がってくる強い風が、田んぼをわたり、山の木々を揺らしていた。
敦賀市内にもどりチェック・インした後、商店街のアーケードを歩いた。どこも閉まっているが海の幸をだす食べもの屋さんはいくつか開いている。店のひとつに入りメニューを見たが食べたいものはなかった。席について熱燗をもらって、「あの〜、魚の煮たやつが食べたいんですけど」といったら寒ブリのあら煮をやってくれた。ほくほくと、あっと言う間にイイ気分。奥の座敷きに1組のお客さん。板前さん2人と女性の店員。年末のテレビを見ながらK-1はまだかと言っている。天気予報は今日と同じ曇り。ふーんオートバイかい、うちの兄貴は大阪の大東にいるんだ。
雨はまだやまない。
部屋にもどって風呂に入った後、越前カニ寿司を食べる。
ベットに横になってもあれこれ考えが止まらない。
明らかに違った2つの世界がある。1つは35歳でアメリカに渡り、そこでニューエイジの流れとともにおおいに活躍され、はかりしれない影響を与え、ティク・ナット・ハンをはじめ世界のひとに知られている老師のお寺としての面。もう1つは「われらの寺」として、地元の檀家さんたちの生活に密着し、明確な役割をもち、古さにかかわりなく大事に維持され、機能しつづけている存在としてのお寺。
その2つの世界をつなぐものは何もないように思われた。今のわたしの頭の中とナタリーの著作を除いては。
明日は元日だが、寺には寄らずに帰ったほうがいいように思えてきた。窓の下の、駅に通じる道を見おろして「ナット、あなたもここを通ったのですか」と問いたくなった。彼女のいるニューメキシコまで届く声で。
ときおり聞こえるはげしい雨の音で、何度か眠りがさえぎられる夜だった。
朝、目を開けるといくぶん空が明るい気がした。雨は上がっていた。明るい空の下でお寺を見たいと思った。そしてなにより初詣せねばと思った。
高校性くらいの女の子2人づれがお寺に向かって歩いていた。境内には3台の乗用車。顔をあわす人と「おめとうございます」を言い合う。地元の大人たちは皆、お正月用なのだろう、どこかぱりっとした出立ちをしてらした。お寺の中に入り、お賽銭をあげ手をあわせた。手をあわせながら目をあけてじっとしていた。2本のろうそくに照らされて黒塗りの仏具が見えた。かつて訪れたことのあるカトマンドゥの寺院が一瞬思い起こされた。
閉められた襖の向こう側で、町の方々が寄り合っておれらるようだった。わたしはそのままそっと外に出た。
海沿いの道近くにとめたオートバイに跨がったまま、日本海をぼんやり見ていた。お寺から見た今日の海は静かに見えたけれど、近くにくると波は高く、くだける音も響いていた。
長年にわたって厳しい厳しい修行を老師とともにつづけたナタリーは、この穏やかで静かな小さな町をいったいどんな思いでながめたのだろうか。
残された檀家の方は違った思いをもっているかもしれないが、それほどにすぐれた禅師であったからこそ、布教師として抜擢されたのではなかったのか。
キッチンに立ち、オーチャドの花瓶に水をさしながらたたずむ老師を見たときナタリーはその場に、その瞬間に、彼が‘彼そのもの’として居るのを感じとった。また、あるダンサーは町なかを歩く彼を見たとき、卓越したダンサーだけがもつある種の存在感と同じものをその姿に見てとった。シェルドン・B・コップの一文が思い起こされる。
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――その身を生涯巡礼に捧げる人たちは、ひと目でそれと分かるだろう。彼らは「幾多のしるしを、幾多の奇跡との出会いを、そして幾多の冒険の誉れをその身に帯びている」。
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ふいに後ろから声がした「ほう、大阪からかね〜。バイクは寒いやろぉ」長靴はいて白いチワワを散歩させている背丈のあるおじいさんだ。さっきお寺にいらした方だった。「ええ、今日は雨じゃなくて良かったっす」「あぁ明け方まで降っとたもんなぁ」

(禅師もナタリーも目にしたであろう、お寺から見た日本海)
高速道路にのる前に給油4.7L。リッター30キロ以上走っている計算になる。燃費のよさにびっくり。正月営業のショッピング・センターの窓近くの席で、コーヒー2杯、ピザ2片を食らって、からだを暖めなおす。
もともと高速を走るのは好きじゃないけれど、それでも今日は空が明るいのが救い。湖北を過ぎて平野部にでると日も差してきた。サービスエリアに入りサングラスを取り出す。とはいえ寒いことに変わりはない。ヘルメットもとらず鼻水を流し凍えながら手をこすり合わせているわたしの前を、正月休みでねぼけた家族づれがアイスクリームを手に歩いてゆく。どこも道はすいていたけれど、わたしがおりる名神・京都南出口はさすがに初詣の四輪の列で混んでいた。

自宅にもどり風呂に入った後、ゆっくりお茶を飲みながらもう一度“Long Quiet Highway”のカバー・ジャケットを見た。田舎道が描かれたその絵はずっと前から親しみのあるわたしの好きな絵だった。いくらかエドワード・ホッパーの作品とも通じるものがあった。
ひとつの気がかりは、アメリカの書籍でタイトルが“Long Quiet Highway”なのだから、西部をつらぬくあの伝説のルート66みたいに、もっと堂々とした写真でもよさそうなのにと思っていた。
いま見ていて、はっ、とした。何度も見たこのジャケットの絵は、まさに、あの北田の町並みから、山手の泰蔵院の方角を見たときの光景そっくりではないのか。電信柱の並びかた、両側の畑と枯れ草の色あい、そして何より、きわめて日本的な山の尾根のライン。
7年前にオークランドではじめて見たときから今日のこの瞬間まで、まったくわかなかった。そうだったのだ。ナタリーが書き記した“長く静かなハイウェイ”は、日本海が見える、あの福井県の「北田」の山までつづいていたのだった。
カバー・ジャケットが写真ではなく、絵であることも説明がつく。描かれた絵であればこそ、ジャケットに相応しい微妙な象徴化の過程がとれるというものだ。写真であれ記憶の中の風景であれ、ナタリー自身が編集者と相談し、このような風景で、と要望したのは間違いないだろう。
何かと何かがつながって、大きなリンクを形成し、それを自分ひとりではとうてい抱えきれないものであるかのような感覚をおぼずにはいられない。
古来、精神の旅をつづける人々はこのような感覚をきっと本質的な意味において「縁」と呼んだのだろうと思う。でも現在「縁」という言葉は、他の多くの日本的な知恵(例えば合氣道の精神)がそうであるように、あまりにすりきれた意味になってしまった。だからここでは星川 淳 氏の訳語である「相互依存的連係生起」dependent co-arisingを使いたい。
40年前に福井県を出発した片桐禅師がアメリカで生徒を教え、そしてナタリーがすばらしい本を書き、それを読んだ大阪に住むわたしが、福井県を訪れ、いま本のジャケットをつくづくとながめている。これを「相互依存的連係生起」と呼ばずになんと呼ぶのか。
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