私の合氣道の先生、藤平光一先生はこう言っていた。健康な人の「氣」の流れは、深い湖の地下から湧き出す水のようだ、と。私たちが天地へと癒しのエネルギーを送り出すように地下の泉は湖に水を供給する。絶えまなく減ることなく地下の泉は湖に水を供給し続ける。湖に貯えられた何トンもの水の重みが、この泉にフタをするかのように抑えつけていてもそれに妨げられることなく水はポコポコと地下から湧き出てくる。少しの抵抗もない通路を使って氣は流れる。これがほんとうに大いなる力が使う通路である。人間存在としての私たちは、少しの抵抗もない通路を使って天地へとエネルギーを送り出せるように作られている。この“私たち”のエネルギーの流れは、個人の健康と幸せを維持することも援助する。私たちは与えることによって受け取る。なぜなら私たちの氣はどんな個人の所有でもなく、天地のものなのだから。
私がここで語ろうとするのは、日常生活において自分たちとは異なった人々、勢力、意見に遭遇した際にどのように相手を認め共鳴し敬意をもつことが可能になるかということだ。共通した1つのエネルギー源が、自分たちの周囲に見られるすべての差異や相違の元にあるというパラドクスを理解することにつながるような、いくらかの洞察を示すことができればと思う。合氣道では、おそらく身体的と呼べる訓練によってそれを達成しようとする。自分の相手を認め共鳴し敬意を払うことを練習する。将来のいつの日かこの練習が体現された現実となることを願いながら。練習では呼吸法と瞑想を習う。そしてその体験を通じて私たちは天地とともに存在している自分を感じ取る。
合氣道の生徒がまず最初に習うのは、バランスよく身体の姿勢を保ち、筋力を緩和する方法である。バランスをとり余分な筋の緊張をなくすことによって、胴体の重みが自然に生殖器官周辺の下腹に落ち着くようになる。下腹のこのエリアのことを藤平先生は「臍下(せいか)の一点」と呼び、この一点に心を沈める、すなわち自分の体重が自然にこの部分に落ち着く感覚を維持するように生徒に説いた。バランスよく姿勢を保ち、身体の余分な緊張をなくし、あれこれと考える精神を静かにさせ、すべての生命に共通した結びつきを感じ取る。それができているとき、私たちは自然に豊かな氣の流れを生み出し、癒しの作用を自分の周囲に発散する。前述したように、氣はすべての生き物に生気を与えるものであり、すべての生き物はこの1つの同じエネルギー源、同じ氣、同じスピリットを分けあい利用しあっている。合氣道ではこの共有された天地のスピリットを「霊性心(れいせいしん)」と呼ぶ。
身体のバランスを保ち筋の緊張をなくすとき、私たちの思考と行動は統合され、考える精神を静かにさせ、ちょうど母親が生まれたての赤ん坊を抱きながらあふれる情愛と庇護と慈悲を放つのと同様に、私たちは「霊性心」をはっきりと外に表す。「霊性心」の流れを経験するとき、自然に私たちはあらゆる生命の価値を認め共鳴し敬意をもつことができる。
「霊性心」の流れに関して私個人が重要だと考えていることは、それは思考によって生み出されるのではないという点だ。すべての生命が1つであるを感じるのは私たちが“それ以下でも以上でもないほんとうに必要なことのみ”を行うときである。“少なく行う[doing less]”ことで大いなる力と大いなる生命との結びつきの感覚がもたらされる。こうして静と動とが1つのコインの裏表であるというパラドクスを私たちは手に入れる。一方はもう一方が鏡に映った姿なのだ。静まりかえった台風の目から暴風が放射されるように、とび抜けた静けさがとび抜けた活発さを導く。強く投げられたコマが直立して静かに回転するように、極まった活発さが極まった静けさを導く。
自分の身体のバランスを保ち緊張を緩和し、思考と行動を統合させ、考える精神を静かにさせたなら、異なった2つの経験が共通の性質をもつ1つの経験へと移る。そのようなとき、何が考える精神にとって逆説的なのかを経験をもって知ることになる。それは1つの源からもたらされたものとは相当に違っていることが分かる。
■ 深く呼吸しながら、入ってくる氣と出てゆく氣に同時に気づく。
■ 深く呼吸しながら、自分の身体の“重い−軽さ”を感じる。
■ 深く呼吸しながら、自分の活力の“不動の−動き”に気づく。
天地に明確に行き渡っているエネルギーを感じ取りそれとともに自分が動くとき、いっそう健康で満ち足りた生命を生きる原動力にあふれていることに気づく。すべての生命を庇護し価値を見い出す感覚を得る。他者と対立しようとはせずに本能的に他者と動くことを学んだなら、すみやかに相手側の思考と行動が直感的に理解される。そうすれば将来において相手を新しい方向にやさしく導く可能性を伸ばすことができる。これはまさに今日の社会情勢において必要とされていることである。
合氣道は平和を行う武術である。どれほど護身のために役立とうとも合氣道には攻撃の型などはない。前述したように、合氣道ではすべての生き物は1つの共通したエネルギー源(氣)を利用し分けあっている感覚が得られるように練習する。このエネルギー源は個人の生体システムを維持するのと同様に、私たちをとりまく環境の営みの持続をも助けている。1つの共通のエネルギー源を分けあっているのであるから、何らかの重要なはたらきによって私たちはまさに同じ家族の一員であり、自然の中のどの生命もその生涯をともにする仲間だと私たちは信じている。合氣道にどんな攻撃の型もないのは、他者を攻撃することはそのまま大切な家族の一人を攻撃することになるからだ。合氣道の中心的な眼目の1つは、自分自身と自分の意見と生きる権利に栄誉を与えそれを護るやり方を見つけるのとまったく同時に、自分の敵にもまた同じように栄誉を与えそれを護るやり方を見つけることにある。けっして簡単なことではないが、その体現に向けてトライする価値はある。
自分個人の“中心”の位置を定め維持することを習得したなら、自分の中心とは、自己に属するもの [local] と全世界的なもの [global] とその両方なのだと気づく。ソニーの創業者の一人盛田昭夫はこう言っている「われわれはローカルに行動しながらグローバルに考えなければならない。グローカル [glocal] になる能力を伸ばさなければならない」。この“グローカル”になる感覚をもったとき、他者の氣に触れそれと交わる素晴らしい能力が明らかなものとして現われる。何らかの重要なはたらきによって、私たちのすべては同じ氣、同じ祖先、同じ神性、を共有しているのだと気づく。
すべての生命は本来1つ[oneness]である。そしてこの1はどれほど減らそうともけっしてゼロにはならない。この1つのエネルギーから互いに釣り合う2つの力が生まれた。それは刺激しあいサポートしあう2つの作用である。そうして(1つの絶対の天地から)状況に応じて変化を見せる相対的な世界が生じた。相対的世界では反対側にいる相手との継続的なやりとりが必要となる。夜と昼、男性と女性、陰と陽。どちらもが反対側の相手を必要とし互いにサポートしあっている。もし夜が昼を邪魔したり、もし男性が女性を蔑んでサポートしなかったり、1つのグループが他から服従を迫られたら、すべての生命にとって重要な意味が損なわれる。互いの生命を維持するために、つながりあう世界は‘違い’を必要としているのだ。意見の違い、当然のこととして考えているものの違い、宗教の違い、どの違いも私たちに共通するスピリットとしての「霊性心」を育てることを導く。反対側の相手は均衡を保つ力として不可欠なのだから、そうやって私たちの未来の生存能力を支えるものとして差異を利用することはとても重要なのだ。あたかも唯一の正しい方法や、唯一の信念や、唯一の宗教が存在するかのようにふるまうのではなく、すべての生命が根本において1つであること[oneness]を私たちは感じ取らなくてはならない。
生命に滋養を与えることを可能にするような差異を支える重要な要素として、承認・共感・敬意の3つが挙げられる。
1. 差異がもつ価値を認めることは、違いの探究に対するオープンさを育てる。違いを探究しようというオープンさがあれば、より豊かなアイデアや状況から引き出しうる代替案が得やすくなる。これは現実にうまく適応できるために欠かせない要素である。“良い−悪い”という二分法にもとづく概念から離れ、目の前の状況でもっとも効を奏すものは何なのかに意識を向ける。どんな学習もその過程において失敗が含まれることを知り、試行錯誤のプロセスを歓迎し受け入れる。もし、自分たちがそのときに直面しているニーズに合致していないからといって、人からの返答や意見を軽視したり抑え込んだなら、私たちは湧き出るはずの未来の新しいアイデアを減少させて、創造性のプロセスを傷つけていることになる。
2. 共感は、他者のニーズ・夢・願望を好意的に受け止めることを容易にしてくれる。他者の思考と感覚に敏感になれば“自分の”やり方が唯一のものではないとすみやかに気づく。“自分の”やり方が絶対に正しいわけではない。それはいくつもある道のうちのひとつにすぎない。
3. 敬意はすべての生命が育つための養分のひとつである。というのもそれは合氣道でいう「霊性心」の発露を導くからだ。生きてゆくことは必ずしも容易ではないが、幸いなことに私たち誰もが“1つの同じ”天地の氣から活力を得る素晴らしい能力を携えている。
さて、これで見解や信念の相違がもつ重要性を分かってもらえただろうか。他の人たちの立場に私たちが共感できるよう、そして私たちがすべての生命の神聖さに敬意を抱いて謙虚に生きられるようになることを祈りたい。
<終>